世界初の露和語辞典を作った、薩摩出身の少年ゴンザ…
その和訳部分は鹿児島弁で記載されています。その鹿児島弁を顕彰しようとする会です。
また現地サンクトペテルブルク大学のゴンザ研究の学生達メンバーとともにゴンザの足跡や編纂された未発見の出版物の操作、および墓地の特定など未解決部分を明らかにする活動も行っています。
ゴンザについて
ゴンザは薩摩の北薩海岸出身の少年です。
ロシアのカムチャッカ半島に漂着しました。
1.薩摩の港を11歳で出港
1728年冬、ゴンザら17名を乗せた若潮丸は、大坂へ向けて薩摩の港を出帆しました。第22代薩摩藩主島津継豊の命を受けての船出であったとも言われています。その時代、大型の最新鋭の帆船であっただろうと思われます。出港時、ゴンザは11 歳でした。父は舵手で、ゴンザに航海術を教えようと乗船させたのではと言われています。ペテルブルクまでゴンザと行動を共にするソウザは35歳。商人の子で父の死後、商人になり、大阪までの案内のため荷主たちから雇われて乗船していました。乗組員はこの2人を合わせて17名でした。船は当初、順風に帆を上げて進んでいました。
2.漂流
そのうち、8日間、激しい向かい風に苦しめられ、そして太平洋へ押し流されました。どこがどこやらわからないまま漂流しました。11月8日から6月7日まで海流のいたずらか、なんと6ヶ月と8日間も漂流し続けました。この間、すべての品物、道具、錨などを投げ捨て、マストは切り落とし、大事な舵は吹き荒れる嵐で破壊されてしまっていました。
3.カムチャッカ半島に漂着
やがて船は、カムチャッカ半島の南端ロパトカ岬付近に漂着しました。1729年6月7日。17人は海岸から5キロほど離れたところで錨を下ろして船を止めて上陸しました。人影は見えなかったが、とにかく生きながらえたことを喜び合いました。だが、間もなく悪夢がふりかかりました。コサック(先住民)の襲撃を受けたのです。そして生き残ったのはゴンザとソウザだけになりました。ゴンザが漂着した当時、カムチャッカ半島は、ロシア帝国に併合されてまだ30年ほどしかたっていませんでした。ロシア帝国の統治がすみずみまで及ばない地域は勇猛な荒くれ者たちの騎馬戦士集団、コサックが牛耳っていました。しかし、ロシア帝国の役人はこのコサックの襲撃のことを知るとゴンザとソウザを連れてこいと命令し、保護しました。コサックの隊長は処刑されました。
4.ユーラシア大陸4年の苦難の大移動の旅
ゴンザとソウザは解放され、1731年ロシア帝国の管理下に置かれてシベリア経由で約1万キロ離れたヨーロッパ川の首都ペテルブルクに護送される事になりました。ユーラシア大陸の極北のツンドラ(永久凍土)とタイガ(大針葉樹林帯)が延々と広がるシベリア。2メートルほどの道幅で続くおそろしく何もない単調で寂しい道…冬は死と隣り合わせの極寒。夏は煙のタツマキのようにして襲ってくる檸猛なシベリア蚊の棲む地獄道。護送は想像を絶する徒歩と馬車での移動は想像を絶する4年の歳月を要しました。
5.ペテルブルクにて
女帝アンナ・ヨアノブナ(在位1730〜1740)に謁見したゴンザは、翌1734年10月31日にロシア正教の洗礼を受け、ダミアン・ポモルツェフというロシア風の洗礼名を授けられました。洗礼を受けたことで、ゴンザは切支丹禁制を敷く日本には二度と帰れなくなりました。そのような運命を受け入れ、未来に賭ける決意を固めての洗礼受諾であったと思われます。その後、2人は科学アカデミーに配属され1736年7月、女帝アンナ・ヨアノブナの命令で日本語教師に任命されました。ゴンザ18歳のときでした。1736年9月29日、ロシア漂着以来ずっと一緒に暮らしてきたソウザが亡くなりました。(享年42歳)。カムチャッカで父親を殺された後、父親代わりでもあり兄のような存在でもあったソウザを失ってしまいます。
6.世界初の露日辞典の編纂
ゴンザは、ボグダーノフ教授の指導のもとで悲しみに暮れる間もなくソウザの葬儀を終え、その死からわずか11日目に世界初の露日辞典「新スラブ・日本語辞典」の編纂という大事業に取り掛かりました。ゴンザが約1万2千語の露日辞典を「コトバウツス(言葉うつす=翻訳する)」と言って一文字一文字手書きで書く作業は、驚異的な速さでした。なぜ、それほどに没頭したのか…?「ソウザの死が言葉では表せない孤立感がゴンザを机に向かわせた」のではないかと言われています。ゴンザは語学的な才能に恵まれ、精細な感性を持ち合わせていたのは間違いない。故郷、薩摩の当時の教育水準の高さや、のみこみの速い十代という年齢的な要因もあったであろうと言われています。「ロシアでたった一人孤独という目には見えぬ苦悩と闘いながら、ロシアに生きた証をできるだけ早く残したかったのでは」とも言われています。そしてついに、1738年11月7日、ゴンザ20歳の時に世界初の露日辞典「新スラブ・日本語辞典」を完成させたのです。
7.ゴンザの死
1739(元文四)年のことです。この年の冬、ロシア帝国の首都ペテルブルクを、歴史に残る大寒波が襲いました。
ロシア漂着から10年余りがたった1739年12月26日、ゴンザは21歳の若さでこの世を去りました。
ゴンザの主な鹿児島弁の語彙(「あ」〜「こ」から始まる語彙)
いかにも鹿児島弁らしいもの、興味深いものを補足します。カタカナ見出し語はゴンザの日本語訳(鹿児島方言)。〔 〕は元のロシア語の意味。その後の補注は、ゴンザの訳語に対する考えを添えたものです。
資料として挙げた『日葡辞書』(1603年)は、キリシタン宣教師たちが作った日本語とポルトガル語の辞書(約32800語)で、当時の京都を中心とした標準的な日本語の様子が分かりますが、中に「下」と注記した約300の九州語が入っています。ゴンザの鹿児島方言(1728年)が当時より120年くらい前の古語の面影を遺していることがよく分かります。このゴンザの鹿児島方言の流れが変化しながら、さらに280年後の現代鹿児島方言へと続いて来ているのです。なお、越山吾山の『諸国方言物類呼称』(1775年)は、ゴンザより後のものですが、約4000後のうち九州に関係があると思われる語が約460語あるので、少し参考に挙げてみました。
ゴンザの足跡をたどるシベリア横断の旅 第2回
2013年8月ゴンザ顕彰会の事務局長 種子田氏と
サンクトペテルブルク国立大学の生徒2名とで調査に行きました。
目的はゴンザが歩いた1万キロをたどり足跡を探すことでした。
ゴンザの足跡をたどる旅 第1回
2010年11月にゴンザ顕彰会の淵ノ上、種子田、両氏が
ロシアのサンクトペテルブルクへゴンザの調査に行きました。
目的はサンクトペテルブルク大学に交流をするきっかけを作りに行くこと。
ゴンザの編纂した世界初の露和辞典をこの目で見ること。
そしてゴンザの墓地を特定して御霊を日本へお連れすることでした。
ゴンザの墓については現地でも調査されたことがなく難航しました。
サンクトペテルブルク東洋研究所や考古博物館、
サンクトペテルブルク大学の学生の協力を得て
考古博物館の資料からゴンザの墓地の情報を特定。
現在は一部公園となっている敷地で線香をあげ慰霊をしてまいりました。
ゴンザの御霊に花と線香、焼酎を添えました。
そして「ゴンザ殿なご待たっしゃげもした」と淵ノ上さんは泣き崩れました。
西日本新聞に掲載されました!
8月17日の西日本新聞のゴンザを紹介する記事に
会長の種子田のインタビューが掲載されました。
ぜひご覧ください!