世界初の露和語辞典を作った、鹿児島出身の少年ゴンザ。その和訳部分は鹿児島弁で一部分書かれています。その鹿児島弁を元に、方言の奥深さを顕彰する会です。
また現地サンクトペテルブルク大学のゴンザ研究の学生達メンバーとともにゴンザの足跡や編纂された未発見の出版物の操作、および墓地の特定など未解決部分を明らかにする活動も行っています。
ゴンザについて
ゴンザは鹿児島県北薩海岸出身の少年です。
ロシアのカムチャッカ半島に漂着しました。
乗っていた17人全員が生きのこったことを喜ぶゴンザ達でしたが
コサック(先住民)の襲撃にあいゴンザとソウザ以外は全員殺されてしまいます。
そのことを知ったロシア帝国の役人はゴンザ達を救出。
そしてゴンザ達は4年間かけて1万キロ先の
サンクトペテルブルクまで歩いて行くことになりました。
ゴンザ達はサンクトペテルブルクでアンナ女帝に謁見。
ロシア帝国からの依頼でその後
世界初の露和辞典「新スラブ・日本語辞典」を作成にとりかかります。
1万2千語を収録した「新スラブ・日本語辞典」を
2年かけて完成させました。
薩摩の1少年が世界で初めての露和辞典を完成させると言う
驚異的なことを成し遂げたのは薩摩の教育レベルが
いかに高かったかと言う証明にもなります。
しかし完成した翌年に21歳の若さで亡くなってしまいます。
ゴンザの主な鹿児島弁の語彙(「あ」〜「こ」から始まる語彙)
いかにも鹿児島弁らしいもの、興味深いものを補足します。カタカナ見出し語はゴンザの日本語訳(鹿児島方言)。〔 〕は元のロシア語の意味。その後の補注は、ゴンザの訳語に対する考えを添えたものです。
資料として挙げた『日葡辞書』(1603年)は、キリシタン宣教師たちが作った日本語とポルトガル語の辞書(約32800語)で、当時の京都を中心とした標準的な日本語の様子が分かりますが、中に「下」と注記した約300の九州語が入っています。ゴンザの鹿児島方言(1728年)が当時より120年くらい前の古語の面影を遺していることがよく分かります。このゴンザの鹿児島方言の流れが変化しながら、さらに280年後の現代鹿児島方言へと続いて来ているのです。なお、越山吾山の『諸国方言物類呼称』(1775年)は、ゴンザより後のものですが、約4000後のうち九州に関係があると思われる語が約460語あるので、少し参考に挙げてみました。
ゴンザの足跡をたどるシベリア横断の旅 第2回
2013年8月ゴンザ顕彰会の事務局長 種子田氏と
サンクトペテルブルク国立大学の生徒2名とで調査に行きました。
目的はゴンザが歩いた1万キロをたどり足跡を探すことでした。
ゴンザの足跡をたどる旅 第1回
2010年11月にゴンザ顕彰会の淵ノ上、種子田、両氏が
ロシアのサンクトペテルブルクへゴンザの調査に行きました。
目的はサンクトペテルブルク大学に交流をするきっかけを作りに行くこと。
ゴンザの編纂した世界初の露和辞典をこの目で見ること。
そしてゴンザの墓地を特定して御霊を日本へお連れすることでした。
ゴンザの墓については現地でも調査されたことがなく難航しました。
サンクトペテルブルク東洋研究所や考古博物館、
サンクトペテルブルク大学の学生の協力を得て
考古博物館の資料からゴンザの墓地の情報を特定。
現在は一部公園となっている敷地で線香をあげ慰霊をしてまいりました。
ゴンザの御霊に花と線香、焼酎を添えました。
そして「ゴンザ殿なご待たっしゃげもした」と淵ノ上さんは泣き崩れました。
西日本新聞に掲載されました!
8月17日の西日本新聞のゴンザを紹介する記事に
会長の種子田のインタビューが掲載されました。
ぜひご覧ください!